Oh 脳《027》錯覚:知識が邪魔をして見えなくなるもの

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錯覚:知識が邪魔をして見えなくなるもの

《監修》小泉ひよ子とタマゴ倶楽部
第0版♪1988/03/29

セミナーの枕で紹介した小ネタ集です。息抜きや話題作りにどうぞ (^.^)

  • 《Tips》私たちは、なにか新しい知識/情報を獲得すると、それを前提にしか物事を考えられなく傾向にあるようです。たとえば…

以下の図を見てください。その中心にある円は(A)と(B)のどちらが大きいでしょうか。


正解は(A)だと聞いて、他の受講者はどのように感じるかを想像してください。ある人は「だからどうした」と思うでしょう。また、ある人は「そんな馬鹿な」と思うでしょう。「それは目の錯覚で、実は同じ大きさ」と解説を始める人がいるかもしれません。そこで、実際にその大きさを比較してください。すると(A)の方が「わずかに」大きいことが分かりリます。
思い出してください。最初に錯視の説明を受ける前は、素直に(A)の方が大きいと感じたはずです。ところが、一度この知識を獲得した後ではどうなるでしょう。やがて、同じような問題を見るたびに、知識が先行して、自分で思考するのを忘れ、目の前の真実を見過ごす自身に感じる(気付く)ことすらなくなります。


... zap ...
たとえば、小学校の低学年に「3−4は」と尋ねると「小さな数から大きな数は引けないよ」と馬鹿にされるかもしれません。また「3÷4は」と尋ねると「余りが出るから割り切れないよ」と馬鹿にされるかもしれません。やがて、高学年になると、それまでは諦めていた問題解決が可能になります。
同じ傾向は、Java/C# に象徴される「ハイブリッド型 OOP 言語」から、Ruby/Python に象徴される「より純粋な OOP 言語」への、パラダイムシフトがうまくいかないプログラマーにも見られます。ハイブリッド型では困難な問題解決が、本格的な OOP 言語では容易になるのを経験する前に、先祖返りしてしまう傾向があります。彼らは真の OOP への扉を開くどころか、再び SP の世界まで舞い戻ってしまいます。それは悲劇か喜劇か、そんな「割り切れない」思いに駆られるのは、私だけでしょうか。


... zap ...
「どちらも大きさは同じ」と同じ答えを口にした人の中で、知識を持たずに感じたままを述べたものと、自分の知識を疑って再構成したものとでは、同じ答でも意味合いが異なります。
同じ滑稽さは「Python には switch もないのか」という反応からも窺えます。switch の代わりに、if や辞書を使う方法を披露する光景は「それは目の錯覚で」と説く様にも似ています。それは、switch を使っても解決できる問題を他の方法で表現しただけで、switch を必要としない問題解決に成功したわけではないのです。
Windows ならでは新機能が告知されるのを見て、それって Macintosh ではすでに実現されているんですけど…と突っ込みを入れたくなるのは、私だけではないようです。同様に、Java/C# の新しい(将来に予定されている)言語仕様が、他のコミュニティーでは「何年前/何十年前」に実現されていたかを比較してみるのも一興です。確証バイアスを克服するのが困難なのも事実です。そこにあるべきものが見つからないとき、それを探そうとする前に、自分が見失っているのは何かに心掛けてください。


《余録》次の図では、その中心にある円はどちらも同じ大きさです。□